劇評「空洞 世田谷区桜上水 03.2025」
蛙坂須美

私事で恐縮だが、つい最近、父を亡くした。
この劇評(というかたちになるかどうかはまだわからないが)を書きはじめたのは、四十九日法要の前日である。
父が亡くなってから、実家に顔を出す機会が増えた。ひとり残された母が心配だから、というのが理由だけれど、そうして父のいなくなった実家のそこここを眺めるにつけ、わたしは哀しさや寂しさとはまた別の感慨を抱かずにはいられない。
本当に、ここはわたしの家だったのだろうか、と。
熱量学の第二法則を持ち出すまでもなく、およそこの世界の事物は不可逆に変容し続けている。今日のじぶんは昨日のじぶんとは微かに、しかし確実に異なる存在なのだし、一時間前、五分前、三十秒前、瞬きをする以前のじぶんは、もはやじぶんではない。
いささか乱暴ではあるが、時間という尺度を用いてじぶんを同定する行為は、不可能だとさえいえる。じぶんとは、畢竟、片時も休むことなく変容する運動そのものだからだ。
そうだというのに、わたしたちの意識は、斯様な変容にきわめて鈍感にできている。生々流転を絶えず繰り返すじぶんを意識しはじめたが最後、わたしたちの自己同一性は、瓦解のとば口に立つことになるだろう。
一方、実家である。
実家とは、少なくともある時期までは、じぶんの一部を形成していた存在だ。いささか大袈裟に、引き裂かれたじぶん、と言っても差し支えないと思う。その意味で実家は、もうひとりのわたしなのだが、にもかかわらず、それはわたしたちとは異なるベクトルで、日毎、変容し続けている。懐かしさに癒着した居心地の悪さ。heimlich(馴染み深いもの)とunheimlich(不気味なもの)。実家とは、わたしたちの半身であると同時に、しかし確実に、わたしたちとはズレてしまった存在なのだ。
「空洞 世田谷区桜上水 03.2025」の語り手にわたしたちが同調するのは、まずもってこの不気味さの感覚においてだろう。馴染み深いものがきれいさっぱり処分された居室には、座面の大きく破れた座椅子が一脚。おまけにそこに現れるのが、「わたしの幽霊」だというのだから。
〈この家の事とか、誰も知らずに私までいなくなって、この家だけが残ることを考えたら怖くて〉
わたしが消えても、家は、実家はそこに残る。そうして残された実家は、わたしの意思を顧みることなく、変容を続けていく。
こうしたイメージにつきまとう不快さは、わたしたちが幽霊に対して抱く感情と、相似形をなす。生から死への移行によって、わたしの個性はなんらかの変容をきたすにちがいない。そうしておそらくは、幽霊になったあとでも、この変容は止むことがない。
わたしの面影をずるずると引き摺りながら、それはわたしではないなにかになっていく。わたしには、その変容がなによりもおぞましい。
「空洞」はすぐれて幽霊的な演劇作品だが、表象としての幽霊は、最後まで現れることがない。わたしたちがそこに見るのは、幽霊となった実家であり、いずれ幽霊となるべきわたしたちの姿であり、もっと言えば、わたしたちはこれまでも、これからも、じぶんの幽霊を創り続けていくほかないのである。